Miyaの書斎

読書や映画や使ったもの感想を中心にまったりモフモフ書く。

芸術家とそうではない人のあいだ『トニオ・クレーガー / トニオ・クレーゲル』著:トーマス・マン 〜感想と考察〜

*本書のタイトルは和訳が数種類ある。
トニオ・クレーゲル、トニオ・クレエゲル、トニオ・クレーガーなど。

これは文学部(1年生)に通うという女史に、オススメの本はないかと尋ねたところ、紹介してくれた本。彼女は本書の中で「芸術作品を挙げて“これはどうだからあなたはこう”という風に説明していくくだりがおもしろいの」だと説明してくれて、それはおもしろいなと期待想像をしたけれど、実際にはそういった描写ではなく、その部分は退屈と言われている中盤部分であった。けれど全般を通しては大変興味深かったのでよかったと思う。

 

〜全体的な感想から考察へ〜

序盤と終盤の場面と心情描写は、とてもよく書けていると思った。特に序盤は、甘美さや優雅さを感じる時間を、ロマンを感じる時間を与えてくれるものであった。

しかし中盤に入る頃、事細かな描写はぶつ切りのように中断されて、うまい繋ぎの文もなく突然といつの間にか主人公が成長した段階の話になり、また主人公自身も、内省と相手への観察というのがなくなり、ただ偏屈で独自の考えの塔を打ち立てて、それについて執着する大人に育ってしまっている。

青年期から成人へと成長していく過程が描かれていたらよかったなと思った。

また中盤から終盤への移り変わりも、ぶつ切りのようになっていて、気の利いた一文さえないのでそこが残念だった。

 

終盤では、中盤に自分は迷っている俗人なのだと言われて、それを甘んじて受け入れつつ、放浪の旅へ出かけた様子が描かれている。放浪といっても計画性のある旅で、出かける前にその友達の画家に旅程を簡単に説明する。

 

最初に寄るところは生まれ育った町だということを話すと、そこが聞きたかったのよと言う画家。

この画家は実在して著者をこうして助けたような人物であったなら、すごい友達を得たなと思う。

画家が「話は終った?あなたは迷った俗人に過ぎない」と、断罪するように、たった一言の答えでピシャリといったのに対し、主人公はそれまでの講釈内で、(主人公の言うところの)俗人を見下したような言い回しが度々出てきていて、自分はそういったものではなく芸術家なのだと言う前提にたって話をして来た手前ながら、その一言を言われて「私が?」と言って、はたとやや動揺のようなものを見せる程度で、よく激昂することもなく、甘んじて受け入れたものだなとも思う。
もしかしたらこの女性画家は存在しなくて、著者が自問自答した上でのもう一人の自分だったのかもしれないと思う。

 

長々とした講釈部分は、自分はこうした考え、芸術と芸術家とそうでない所謂俗人、そして俗人にもならないし、いかにも見た目芸術家というような芸術家にもなりきれていない自分—それは両親からの血の影響のなすところかと考えていて—そうして果たして自分は迷いに迷って宙ぶらりんであるのだけれどということを、こうして本にして表明することで、ひょっとしたら、この中盤の講釈部分を読んで、共感する者が現れ、あなたは俗人なんかではないですよと、芸術家もまたそういう人もいる者ですよと言ってもらえるかもしれないと期待も含めたのではないかと感じた。
そうでなければ、あまりにも無駄というか、駄文すぎるというか、中盤のこの部分を難解という人が多いし、私もそう感じた。それまでの分かりやす目の文体から一変してしまっていることや、述べている内容も何が言いたいのか、伝えたいのかよくわからないような感じ。

 

人物名ではなく、長文による形容で人物を表記するのが特徴

文体として、誰かを表すのに毎度全く同じ形容文が付いて表現されているのが特徴的と感じた。

この時代のドイツ文学では多い事なのだろうか?これをあるレビューでは「繰り返しの美しさという技法の1つ」だと述べていた。おそらくそういうのが文学的にあるのだろうということは、音楽やデザインの分野でも存在するから、詩のように短文を繰り返すものだけでなく、このような長文を繰り返すものもあるのだろうなと思う。
しかしながら、最近では、同じ表現を使うよりも、違う言い回しを使った方がよろしいというのを耳にしていたし、私もその方が楽しいだろうなと思っていたので、これは意外なものに出会った感じがした。こういうパターンもありだったのかと。この技法は2019年の現在においては、やや読者を飽きさせたり、苛立たせたり、しつこく感じさせるかもしれないと感じた。

全く同じ形容の長文が繰り返されることは、あの紳士はこういう紳士だと覚えておかなくていいので、その点は魅力的かもしれない。

 

芸術家とそうでない人とのあいだに居場所を確立する

全体を通して(全部読み終わって)感じたのは、結局のところ主人公のトニオ・クレーゲルはうじうじした人であったなというのが、最後ポツリと出た感想であった。

序盤の憧れの2人を、どうにもうまく振り向かすこともできないし、いやむしろ振り向いてくれるような人であっちゃあいけないんだというのが、結局、終盤にまた同人物2人と再開するシーンになっても、何もアクションを起こさず、それどころか少年期と同じように、賑やかな社交広間から外れて、暗がりへ身を移して、後ろからその憧れの人物が戻っていらっしゃいよと優しく声をかけてくれるのを待つ、待つけれどもそんなことは起こりはしないことはわかっているという序盤のそれと全く同じ行動、描写なのである。つまり何も成長しなかったと言っているようなものなのである。

しかし一方では、こうした文学的なものに、なんでも“成長”の描写を求めるのはよくないことなのかもしれないと、はたと思った。

映画やアニメ、ゲーム、そして文学など、そうした昨今のコンテンツでは、表テーマでも裏テーマでも登場人物の“成長”が入っていれば、「まぁ商業のそれとして成り立つ=言い訳が立つ」という感じで、成長なんて書きたくはなくて、それよりもこの戦闘シーンが描きたかったとか、この機械シーン、この夏空の懐かしい風景が描きたかったのだなと思わせるようなものも多く、(作者もインタビューでそのように述べていて)、一応、裏テーマ的に成長をほんのりでも見せておけばいいかなという感じなものが多い。それを思うと、そうして無理やり“成長”した様を見せなくても、何も成長なんかしなくても、前へ進み・前へ進もうとし始めた主人公を描いたのはおもしろかったことだなと思う。

 

しかしながら、読んだあと味的には、なんだそりゃぁというような、近所の偏屈なおじさんの与太話に付き合わされたような脱力感がなかったとは言えない。こんなものに時間を費やしたのかといった感じだ。

けれどもし、こうした芸術家とそうではない人、そうではない人からは変人に見られ、芸術家からは芸術家という程の振り切ったものではないと見られ—芸術家とそうではない人の間にいる人について、その迷いや葛藤について誰も書いていないような状態ならば、これはそうした人たちにとって、自分のポジションが宙ぶらりんのままではなく、“そういう所にいる”と、無いよりかはマシな安住の地が得られ、そこに立つことができ、同じように感じている人がいるんだと孤独を紛らわせることができ、共感できて、救いの書になるし、芸術家とそうでない人たちには、こういう人もいるんだと認識を広められるよい書となりうるかなと思った。

 

そしてこの書が、ただのおじさんの与太話として終わらせなかったのが、この著者本人が、この作品以降も精力的に、むしろこの作品以降からより精力的に執筆されて、多くの今も読み継がれる作品や受賞作品を書き上げたところにある。

それでこの書は著者の宣戦布告の書と取れるわけである。自分はこうして片思いばかりだし、うじうじ悩んだりもして、それはそうまぁ、無だけど、何も大したことをやってこなかったけど、それでもこうして思い悩み、人や風景へ愛情を片思いながら傾けたことは、自分にとっては実りのあることで幸福感が得られることで、そうした愛情、片思い、ロマンがあるところから文学は生まれるのだと。さてそれで、自分は迷っている俗人にすぎないかもしれないけれど、まぁ見ていてくださいよ、“これからはもう少しましなことをやるでしょう”と。

そして前述の通り、著者は見事に功績を打ち立てたのである。

 

よく人は、周りに目標を明言することで、自分を追い込んで目標を達成するという方法があるというけれど、この著者トーマス・マンも一種のそれをしたのではないかと思う。私にはその方法は全く逆効果なのだけど、この方法は多くの人にとっては有益だとされている。

それと同時に、こうした微妙なポジションにいる自分への励ましや共感があるかもしれないという期待も込められていたのではないかと思う。執筆しながら模索し、一応の答えは自分なりに出しながらも、これの賛同共感してくれる人が現れたらいいなという思い、それもありながら、これを書き終わることで、次の一歩へ進み始めれるという決心があったのではないかと思う。迷いうじうじ悩んできた自分を一旦吐き出すことで、それは置いといて、それはもう消化したものとして、一皮むけた気持ちで次の爽やかなステップを踏めるんだという。(爽やかだったかどうかはわからない。次の作品や、後年の大作『魔の山』も読めていないのだから。もがき苦しみながら書いたかもしれない。けれど多数の作品や11年の歳月を費やした長編を書き上げるほどの執筆に集中できたことから伺い知るに、プライベートでのそうした苦悩は置いておくことができたのではないかと思われるのだ。そうでなければ、晩年は精神をおかしくして作品を出せなくなっていたのではないかと思うのだ。)

 

〜和訳に関して〜

和訳に関しては、読みやすいとは言い難い感じがした。日本語的にも他の言い回しの方がいいのではないかというような、日本語にないような言い回しや言葉になってるところがあった。独和辞書で訳される単語のまま平行的に訳されてしまったような印象を受けるところがあった。

一番新しい訳本だったので、現代国語的に読みやすくなっているかと思ったけれど、もしかしたら、レビューの感じからすると岩波文庫とかの方がよかったのかもしれないなぁと思ったりしている。

されどドイツ語やフランス語といったヨーロッパ近辺の難儀な文体をよく訳したなという感じもしなくない。そこなんで繰り返すんです?というのや、これ言い換えの文なのかな?なんなのかな?というのらりくらりした文章などが、連用的に続いていると、訳していて、果たして主題はどこなのかなという感じになってくるから、それでもよく踏ん張って書いた方なのではないかと思うし、だからこそ、ひょっとしたら違う感じの意味合いで訳されてしまっているかもしれない恐れもあるわけで。そうか、こんなに現代になっても、言語を超えるのは意外とまだまだ難しいことなのだなぁと思った。いやただ、両国語を自由の使いこなせる文学と文化的教養をネイティブに持った人が訳者という仕事についていないだけの話かもしれない。


 

〜和訳に関して〜

和訳に関しては、読みやすいとは言い難い感じがした。日本語的にも他の言い回しの方がいいのではないかというような、日本語にないような言い回しや言葉になってるところがあった。独和辞書で訳される単語のまま平行的に訳されてしまったような印象を受けるところがあった。

一番新しい訳本だったので、現代国語的に読みやすくなっているかと思ったけれど、もしかしたら、レビューの感じからすると岩波文庫とかの方がよかったのかもしれないなぁと思ったりしている。

されどドイツ語やフランス語といったヨーロッパ近辺の難儀な文体をよく訳したなという感じもしなくない。そこなんで繰り返すんです?というのや、これ言い換えの文なのかな?なんなのかな?というのらりくらりした文章などが、連用的に続いていると、訳していて、果たして主題はどこなのかなという感じになってくるから、それでもよく踏ん張って書いた方なのではないかと思うし、だからこそ、ひょっとしたら違う感じの意味合いで訳されてしまっているかもしれない恐れもあるわけで。そうか、こんなに現代になっても、言語を超えるのは意外とまだまだ難しいことなのだなぁと思った。いやただ、両国語を自由の使いこなせる文学と文化的教養をネイティブに持った人が訳者という仕事についていないだけの話かもしれない。