Miyaの書斎

読書や映画や使ったもの感想を中心にまったりモフモフ書く。

最近の文章を書く時の悩み〜人はコンピューターになるのか〜

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最近このように記事を書いているわけど、どこまで詳しい文章にするか、表現にするか迷うことがある。
というのも、例えば前回の映画の記事では映画全体のあらましとして「ドラマがあるわけではなく、あたり前の仕事として粛々とこなしているだけだった。」という文章を書いたけれど、ここで「ドラマがある・ない」の表現で伝わるだろうか?と思ったのだ。
分かるでしょと思う人もいるだろう、なにをそんなことで戸惑っているのかと。それくらいは分かるだろうと、読者をばかにしすぎではないかと。
しかしネットでいろいろな人とやりとりしたり、コメントを見ていると、結構なかなか、小学生くらいの国語学習で得られるような言葉への知識を持ってない人が意外と多いのだということを感じるのだ。

昨今ではTwitterをはじめとして「(語彙力)」と文末につけるのが流行っているが、中高生を中心とした若い世代は、語彙力が足りてないことを、そこそこ認識しての自虐であることも裏付けている。20代前後までの世代が救いなのは、自分が語彙力が足りてないと受け入れ認識できているところだ。
しかし問題なのはそれより上の世代だ。自分が言葉を知らないことを認めたくない、受け入れたくないから、わからない言葉を使う方が悪いと怒り出す人が多いように思う。

しかしながら国語が得意な方からすると「万人に受け入れられやすい、小学生でもわかるような表現を用いるべきだ」とも小学生の頃から思ってきたわけだ。おかげで文章関係でいろいろ救われてきたのだけれど、しかしけれど、国語が得意な身からすると、日本語のもつおもしろさ、文学的なおもしろい表現、言葉の響きや流れのよさも大切にしたいし、それをうまく表現することに楽しさを感じるわけでもある。
それらを両立するようにしてきた—と思っていたのだけれど、ネットが発達してみると、どうやら思っていたより、言葉の意味を知らない量が多いようで、知らない人の数も思っていたより多いみたいなのだ。

これはおそらくいわゆる昔から言われてきた「本を読まないから」というのが理由だろうけれど、私だってそんなに本の虫になったわけじゃない。私の国語力のほとんどは小・中学生までの読書や調べ物で身についたことなのだ。難しい本を読んでいたわけでもない。

私がブログ界に来てときどきホッとするのは、言葉をある程度は知っている人—というか、私が知っているだろうと予測するくらいの言葉は知っている人が多いからだ。また、文学的情緒的言い回しや、おもしろい表現や言い回しや、元はない表現を創作した言い回しなどを見かけると嬉しくなるし、ホッとするのだ。
((ああ、そうだよな、こう、だよな・・・言葉とはこういうもの。言葉遊びの楽しさ—))
こういった人は他のネット世界でも、まだ見かけなくない。かろうじてまだいるように感じる。

しかし先のように言葉に対する楽しさがない人は、わからない言葉があるとカリカリと怒り出し、もしくはそんな言葉、そんな表現はないとキリキリと苛立ち始める。ひどいと言葉あるないの論点には触れずに、全く関係ないところを論点として—決めつけのような、頭ごなしの人間否定などをはじめる。

ネットが発達したからだろうか?スマホやPCが発達して、映像を見ているだけでいい、受信するだけの娯楽がテレビに加えてさらに増えたからだろうか?
果たしてどうしてなどと嘆いたところで、多くの人の語彙力を底上げすることはできない。

わかりやすく簡潔な文章をよしとする風潮もある。
できたら必要最低限の情報だけがリスト化されていたらベストっていうくらいだ。
ビジネスならそれは間違いなくそれでいいだろう。しかしそうじゃない場面もそれが好まれる傾向にある。
惰性的、情緒的、右往左往した文章やそれまでの流れみたいなのは好まれない。
もちろんとりとめもない長話は疲れるけれど、以前感想を書いた文学『トニオ・クレーゲル』のような右往左往して結局なんにもならないみたいな文学や文章もよしとされる時代が、今はもう少なくとも日本にはなくなってきてるんじゃあないかと思うのだ。

私はそれを不安に思う。
なぜなら共感する・される事が・人が、少なくなっていくからだ。
私は国語や言葉のおもしろさが好きだ。
けれどそれを楽しむ人がいなくなったら、私はこの世にひとりぼっちになったような気分になるからだ。
まるで言葉が通じない異界か、コンピューター人間が行き来する宇宙の果ての星に来てしまったみたいなるんだ。

 


国語が苦手な人や嫌いな人はよくこう言う。
「文章の行間を読むなんて嫌いだ。意味がわからない。くだらない。」
そうだろうか?そうなんだろうか?わからなければそうなんだろうけど、みんなはそれでも推理物はまだまだ好きじゃないか。

人は考える葦じゃないか。
考えるから人は楽しいんじゃあないか?

 

 

そんな感じかなー。