Miyaの書斎

読書や映画や使ったもの感想を中心にまったりモフモフ書く。

イマジネーションの話

今週のお題「乗ったことがある動物」ということでね、ひさしぶりに、はてなのお題をテーマに書こうかと思うんですけど、動物に乗ったことなんてあるわけないな—

あるわ。あった、ポニーという小型種の馬に子供の頃何回か乗ったことあるわ。さらに大人になってから乗馬してみたいなーと思って北海道旅行へ行った時に馬に乗って森を散策したわ。あったあったあったわー。でもそれ意外はありそうで案外やっぱりない。

なんでありそうな気がするのか考えてみたけど、映画とかアニメとかでは動物に乗るのはど定番だから、それでなんとなく自分も乗ったことあるような感じしているのかもしれない(笑) その理屈でいくと、空も飛んだことあるし、魔法も使ったことあるになるけど(笑)

いや、それでいいんだと思う。そういうイマジネーションを持って生きていたいよ。

 

子供の頃に乗った馬ポニーは小型種なので大人というか、そこそこ身長伸びた年齢、中学生くらいかな?はもう乗れなくて、((もうポニーに乗れないんだ・・・))と悲しい気持ちになったのを覚えている。自分はもう成長してしまったんだというノスタルジー、誰にも一度ならず複数回あると思う。忘れちゃってる人もいると思うけど。成長したことは喜ばしいことなのに、センチメンタルになるあの気持ち。

そこから子供の頃のその体験が忘れられなかったんだろうか?何回か乗馬ができるところが近くにないか数年おきに度々調べては、料金を見ては、場所を見ては、行くことを想像しては、ため息をつきながら、どうしようかと悩んだ日々・・・

さらに大人になって自分で北海道へ旅行へ行けるお金と時間(タイミング)をはからずも得た時、私は再び調べたよね、北海道の富良野といえば乗馬できそうじゃない?って。そしてあった、いくつか。馬に乗って散策できるところが。お値段も無理ではないお値段。それでもう旅程の必須項目に入れた。

((馬に・・・乗れる・・・数十年ぶりに・・馬に、乗れる・・・!!))

 

そこからは別記事に書いたと思う通りさ(書いたはずだと思うんだけど。北海道旅行の記事で。そんなに詳しく書いてなかったかもだけど。)

いやーよかったよ。ずっと思い描いていたことができた達成感、喜び、そして実際の楽しさと、それ以上の体験。カタルシスだね。馬も最終的にはなついてくれたし。

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結構満足度高い。だからそれ以降はそんなに馬に乗りたいと思うことがなくなった。満足したんだろうね、私の中で。

 

もし他に動物に乗れるとしたらなにがいいだろうか?と考えたみた。

 

いや、乗る必要はない。なぜなら私にはイマジネーションがあるから。
イマジネーションがある限り、どの生き物にも、いついっときでも乗れるのだよ。うん。

それを忘れないでいきたい。

最近感じるんだけど、本当、大人になればなるほど、年を重ねれば重ねるほど、子供の時はあんなにあった想像力豊かな感じや、思いつきや、ひらめき、ワクワク感や、ワクワクを感じる対象の多さがどんどん減ってなくなっていく。こういうことかーと思った。子供の頃、大人たちが、子供は想像力豊かだからとか、そういうのを大事にしたほうがいいとか、まるで羨ましそうに言うそれが、なんなのか、そんなの想像・空想したりするのをやめなければなくならないじゃん、大人はそんなことしないでとか思ってやめちゃうからなくなっちゃうじゃんって思ってたし、なくなってしまうのが不思議に思えるほど・そんなことにならないと思えるほど、当たり前にそれができてたし、その力があったのに、
今は、その大人がどんな段階を踏んでその力をなくしていくのか分かったし、そして取り戻そうとしても、中学・高校くらいの時みたいにすぐに取り戻したりなんかできないし、むしろ手からこぼれてもうひろいあげれないほど手遅れになっているんじゃないかというほど、むなしいくらいにそれを取り戻すのが遠くて、頑張ってトレーニングするのをおこたったら、そのまま永久に戻らないことさえ感じている。

そういうのって、このイマジネーションの話だけじゃなく、健康とか体力とかそういうのも同じ感じあると思う。

年齢を重ねれば重ねるほど、昔はできていた・当たり前にできていた・できなくなるのが話では聞いていたけどまったく想像つかなかったそれが、自分の身にもおきていくっていうのが。

それが例えば、油っぽいものを昔より食べれなくなったとか、夜更かしして24時間起きておくことなんてできなくなったとかなら、自分でも微笑ましい体験として、おー、これが年をとるということかーなんて思ったりするんだけど、このイマジネーションに関しては、なにかなくしてはいけない大事なもの、そう、魔法を失うかのような感覚と悲しさと焦燥感がある。『魔女の宅急便』でキキが魔法が起こせなくなって、どうしようと焦る感じ、一体私はこれからどうしていけばいいのか、これでは私はなんのために生きているのかまで悩み、将来の不安を覚えるあの感じ—魔法使いでもなんでもないのに、すごくリアルにあのシーンを感じるのは、そういうところからかもしれない。

 

というわけでね、えー「乗ったことのある動物」をお題に今日は記事を書きました。

それでいうと映画『ネバーエンディング・ストーリー』を思い出すんですけど、子供の頃はあんなに楽しかったけど、今見返してみると、子供の頃はイマジネーションで補完・カバーできていたのが、やっぱ技術が昔のだから、いろいろ目についてしまって、いろんな物が作り物感がすごくて、あの映画大好きだから(ストーリーはよく覚えてないんだけど大好きだから)、今の技術、すごいスペクタクルな技術でリメイクしてほしんだけど、なんでしてくれないのかな?してもよさそうじゃない?って感じの期間経ってから、さらに随分と年月経ってるんだけど。他のどうでもいいというか、別に作り直さなくても、昔のの方がいいじゃんっていうような映画はどんどんリメイクしているのに、なんで『ネバーエンディング・ストーリー』はリメイクされないんだろう?権利関係が難しいのかな?どういうことなのかな?

あった、あったわ。そこら辺どうなっているのか記事あったわ。

『ネバーエンディング・ストーリー』リブートか ─ 映画化権を巡ってハリウッドで争奪戦 | THE RIVER

この記事や他のいくつかの記事を読むと2022年あたりにまたリメイクの話題が出たようで、それ以前にも度々あったみたいだけど、原作者が映画の1作目があまりにも改変さたのと、できがよくなかったので、自分のクレジットを載せないことで当時は放映できるにいたり、それ以降はその事が原作者に首を立てに振らせない理由となって、リメイクは難しい状態になっているようだ。

これはなかなか難しいな。あのファルコンは小説の中では普通に龍として描かれているそうで、細長い犬みたいな感じじゃないらしい(え!?あのモフモフが乗り心地がよさそうで、目がやさしい感じでいいのに!!)。

しかし原作を知らない身からしてみると、やっぱり映画で作られた部分の方にも魅力的に感じる部分が多いだろうから、完全に小説の方を元に映画化したら、全く別物になりそうではある。きっと他にもいろいろ違うんだろうから。原作者のミヒャエル・エンデ(!!、あの図書室でよく見かけて面白そうに見えるけど分厚い本だから後で読もう読もうと思ってずっと読まずにずるずるこんにちまで来ている、本たちの作者が原作者だったんだ!!)は、もう1995年になくなっているそうで、だけどそういった話だから、遺族もきっと映画化に快諾はしないだろうしと思うと、ああー、難しいのかなー、どうなのかなー、そもそも前の映画とは全く別物になりそうだなーそうするとー。そっかーそっかーそっかー・・・・(((ノスタルジー)))

ちゃんとつくれば絶対楽しいと思ったけど、ちゃんと作れば楽しいし、また流行ると思ったんだけど、そういうことだとどうなるかわからないなー。それにあのテーマ曲も空を飛んでいるみたいでいいんだけど、きっとそれも新しいものになるだろうし、そうしたら、やっぱり旧作に親しみがあると、どうしても楽しめきれなかったりするかもしれないよなーなーなー・・・(((せつな)))

あの頭が回転するトランプの化身みたいなのが出てくるシーンが好きだった印象なんだけど、そういうのも出てこないのかなー?・・原作読んでみようかな・・その前に図書室や図書館でよく見かけた『モモ』読んでみた方がいい気もするなーなー・・・

(((はぁ・・・おとなってなんでこう時間がないんだろ。それがいましめ—すべてがロボットやAI化して、お金という概念すっかり変わったた時代に生きてみたかなったな・・・)))

 

 

そんな感じかなー。